―それは。


夢か現かさえ分からない、


本当に小さな、思い出の欠片―










































               
           春の隣































容赦なく吹き付ける北風に、しん とうなじがと軋む。

自分がかなり薄着であったことに少し後悔しつつ、僕は何気なく町を外れた小道へ入った。

暖かくなるどころか、むしろ気温は下がっていく一方のこの時期。

もう昼を過ぎた今では、ただでさえ多くない人通りもまばらだった。

柔らかに照らす太陽に目を細めると、ふいに人影が目に入る。

寒いだけなのか、それとも思案に耽っているだけかもしれない。道行く人は皆俯き加減で歩いていく。

「あたたかい」処に早く帰りたいのだろう。少しだけ、急いて歩いているように見えた。

以前の僕なら何も思わず見過ごす情景、だった。

以前の、「あたたかい」の意味を片方しか知らなかったかつての自分なら。

・・・でも今は、少し解る気がする。




『―だって、温もりを知ってるから、冷たいと解るのでしょう?』





そう僕に、教えてくれたひとがいた。

そう僕に、微笑ってくれたひとがいた。












―視界の端にちらりと、紅が見える。

それは今にも綻びそうな、小さな小さな・・・梅の蕾。











・・・あの人は、そういうモノを一番大事にして。

そんなあの人が大切にしたモノを、僕はもっと早く気付くことが出来れば良かった。




















               ◇
















そこには冬の終わりを告げるかのような、小さな梅の蕾が微笑んでいた。







「お待たせ致しました」


何気なく梅の木を見つめていた僕の前に、ことん、と湯のみと小さな皿が置かれる。

頼んであったお団子が二本と、・・・小さなお饅頭が、一個。


「あれ、僕お団子しか頼んでないですよ?」


誰かの注文と取り違えたのだろうかと思い、一応確認すると、彼女は「しっ!」と唇に指を当てて、小さく笑った。


「それはおまけです。いつも来てくれてるお礼ですから、気にしないで食べてください」


周りに聞こえないように小声でそう言われたものの、何度目かの「おまけ」を前に僕はまた少し躊躇する。

いつも思うんだ。流石に駄目だって。・・・でも。


「・・・本当に良いんですか?」


やっぱり食欲には勝てないなぁと自分でもちょっと諦めている所があるらしく、

何だかんだで今までのおまけも全てありがたく頂いている。

そんな僕を見てさんはちょっと笑って「どうぞ」と言うと、客も居なくなって寂しくなった僕の隣の椅子に腰掛けた。


「梅、もうすぐですね」


唐突に、さんが切り出した。先程僕が梅を見ていたのに気付いたのだろう。


「ええ。でも、まだまだ寒いですね」


そう。早春と言ってもまだまだ冬、気温はかなり低いし、時には雪も降る。

梅は桜と並ぶ春の花。梅が散る頃になってやっと、春の到来を知る。

そんな目の前の蕾は、もうすぐ訪れるだろうその季節を少しばかり心待ちにさせた。



「そうですね・・・まだ三月ですから。でも、まだもうちょっと寒くてもいいなぁ」


僕はきょとんとして彼女を見る。見るからに寒がりな彼女がそう言うのは、かなり珍しいことだった。


「咲き始めの梅に雪って、すっごく綺麗なんですよ。何だか風情があって、私は好きです」


でもこの辺じゃ積もるだけの雪なんて殆ど降らないですけどね、と付け加えて、こちらに微笑む。

穏やかな昼下がりにこれ以上無いほど似合う、そんな優しい笑顔に僕はどこか安堵を憶えていた。


「へぇ、そうなんですか。それは一度見てみたいです。何たってさんのお墨付きなんですから、ね」

「本当に綺麗ですよ。見てるとなんだか心が落ち着くんです。

・・・でも宗次郎さん、確か寒いの苦手って言ってませんでした?」

「ええ。でもまぁ、もうすぐ春ですから。あたたかくなるのはちょっと待ち遠しいですけど」


それでも最近じゃ日も長くなっているし、着々と春の足音が聞こえてきているのは救いだった。

今日か、それとも明日か。日に日にあたたかくなっていく、そんな心躍る季節を宗次郎は嫌いではなかった。

柔らかになった日差しや、仄かに香る春の風が心地良いい。


「でももう大分あったかいですねー・・・寝ちゃいそうです」

「じゃあいっそのこと寝ますか?お店閉める頃に起こしてあげますよ」

「!」


そんな冗談を真顔で言うさんは性質が悪いにも程がある。一瞬本気で寝てしまおうかと思ってしまった。

何か言おうとさんを見ると、彼女はただ、澄み渡った寒空を眺めていた。

見据える漆黒の瞳は真っ直ぐ、それでいて何処か別の世界を見ているようだった。


「―・・・寒くなって初めて、人は春が恋しくなるんですね・・・」

「そうですね。確かに、冬に入るといきなり春が懐かしく思えてきますから」

「・・・私、人の心も同じだと思うんです」


意味深な発言に、僕は適当な相槌さえ見つけられなくて、その綺麗な横顔を見つめる。

そしてそんな視線に気付いたさんはこちらを向くと、にっこりと笑った。










「―だって、温もりを知ってるから、冷たいと解るのでしょう?」



















               ◇


















かたん、と先程の客が食べ終わった皿を片付ける。皿の上には団子の串が三本に、饅頭を包んでいた紙。

ふと、視界にまだ寂しい梅が枝が飛び込んでくる。



・・・彼を初めて見たのは、まだまだ雪が舞っていた頃だった。



『あ、こんにちは』


私が働いているこの甘味処に、客としてやって来たのがきっかけ。

街道沿いにあるこの店には旅の途中の人がよく訪れるから、常連はそれほど居ない。

だからいちいち顔を憶える事は無いし、憶えても次に逢うことが無いから結局忘れてしまう。

それでも彼を初めて見た時の衝撃はやっぱり凄かったから、これは忘れそうに無いなと思った。

・・・何せふらりと現れたその青年は、かなり端整な顔立ちをしていたのだから。

さらっさらの散切りの髪に、書生らしき服装。

それが何故かとても似合っていて、彼の柔和な雰囲気を一層引き立てていた。

これには私も、他の店の者も思わずまじまじと眺めてしまったものだ。

さらには惜しげもなく愛想の良い笑顔を振りまくものだから、それに癒される女性も少なくなかった。

そのお陰で客足が増えたと、うちの女将も彼が来ると上機嫌だ。

大抵いつも同じ品を頼んで、他愛も無い会話をして帰っていくちょっと不思議な人。

いつしかそんな彼はうちの店の常連客になって、今では一週間に一度は必ず訪れる。

そして何故か彼が来た日に時たま、私はちょっとした「おまけ」をあげる様になった。


『あ、ありがとうございます』


ほんの小さなおまけに、いつもちょっと躊躇って、いつも嬉しそうに笑う。

そんな彼に、


・・・やられた。


なんて。

私だけ心乱されるのも、・・・やっぱりいつもの事。


そういえば。

彼もこうやって、今の私と同じように梅を見ていたことを思い出す。

それだけで何だかくすぐったい気持ちになるなんて、・・・最近の私はちょっと変だ。




















               ◇





















いつもの帰り。

僕は何気なく街の喧噪の中を、特に目的もなくふらふらと歩いていた。

何故かせかせかと歩いていく人々に、これといって関心はない。

人の勢いに逆らうつもりもなければ、流されるような形で、僕はとにかくアジトの方向に進んでいた。

くらげみたいに漂う僕の目にふと、沢山の店が立ち並ぶ街道の一隅に飾られている、小さなモノが留まる。

さっきまで蕾を見てた所為かもしれない。やけに目に付いて離れなかったそれは。



―梅、だ。



・・・正しくは、梅を模したモノなのだけれど。

造り物と分かってはいても、僕は思わず波から出て、今度は自分の意思でとことこ店先に歩み寄った。

そしてそっと手にとって、暫くそれを眺める。


「いらっしゃい。何をお求めかしら?」


驚いて顔を上げると、店の奥から出てきた初老の女性が柔らかに微笑んでいた。

うーんと少し悩んでから、僕はその人に商品を手渡す。


「あ、えと・・・これを」




















―・・・早く、本物の梅も咲けば良いのに。




















                

















『―・・・     』



遠くで人の声がする。おそらくは、突き当たりにある志々雄の部屋からだろう。

談笑しているでもなければ、言い争いをしている訳でもない。

至極事務的な、感情を一切含まない音だけの台詞の応酬。

それは、宗次郎―いや、ここに居る人間にとっては日常茶飯につき当たり前のことで。

故に別段気にすることも無く、彼はは慣れた廊下をゆっくり歩いて 自分の部屋に帰ろうとした。



・・・いや、帰る筈だった。








「・・・宗の事だが」














―・・・今になって思えば。

この世で二つだけの後悔だった。





"それが、自分の話題で無かったなら"








警戒する動物のように、自分は反射的に歩みを止める事も無かったのに。





拒絶する本能とは裏腹に、ソレを聞くことも無かったのに、と。









・・・








「・・・はははっ・・・」








無意識に、乾いた笑みが宗次郎の口から零れた。

張りつめていた糸が切れて、やっと自由になった人形みたいに、だんだん体から力が抜けていくのが分かった。

自分でも何故笑ってるのか分からない。この胸に渦巻く感情を、彼は知らないのだから。



・・・いずれ。


必ず訪れる出会いの時まで。


絡み合う螺旋の中で彼を待つ、その感情を。






















                  ◇




















店先に行けば良いものの、宗次郎は何故か店の裏口の、それも店の中から見えないような暗がりに居た。

もたれ掛かる形で、ひんやりする塀に身を委ねる。

中からは食器のぶつかり合う音や、水が流れる音がひっきりなしに鳴っている。

そして小さな格子から、宗次郎は中に居る紅い着物の人物の背中を視認した。


さん」


ただ、いつものように呼んだはずなのに、出てくるのは掠れた声だけ。

当然の事だが彼女に届くはずは無い。宗次郎はもう一度、呼吸を整えてから息を吸った。


「・・・さん」


―・・・届け。

呼びかける声に、祈りのような響きさえ混じる。

天はそんな願いを聞き届けたのか、店の奥で鳴っていたかちゃかちゃという音が途絶えた。


「宗次郎さん?」

「こっちです、さん」


呼ばれては流し台からさほど遠くない格子に駆け寄ると、水仕事には相応しくない細く白い指で格子を掴んだ。

格子越しに宗次郎の姿を確かめると、は首を傾げる。


「どうしてそんな所に・・・表から呼んでくださっていいのに」

「・・・いいんです、今日は。此処で」

「?」


訳が解らず、まだ疑問符を頭に浮かべる

そんな彼女を見て、宗次郎は困ったように、そしてどこか寂しそうに微笑んだ。

未だ冷たい早春の風が、格子を挟んだ二人の間を吹き抜ける。

先に気まずい沈黙を破ったのはだった。


「今日はどうなさったんですか?」


無邪気に。何を告げられるかも知らずに。





「・・・僕、もう此処には来れないんです」

「・・・え・・・?」




予想だにしなかった返答に笑顔は凍り、小さく漏らした言葉と共にはただ呆然と宗次郎の顔を見つめる。


「だから、さんとも会えなくなります。・・・今日は、それを言いに来たんです」

「・・・もう、此処には来られないのですか?」

「はい」

「絶対に・・・?」

「・・・はい」

「・・・・・・だってそんな、あんまりにも急な話・・・。何で、どうしてですか」


格子を握るの手に力が入り、更に白く指の血の色を無くしていく。

やっと事情を飲み込めたの精一杯の問いに、宗次郎は答えない。

ただ、いつもの様に曖昧な笑みを浮かべるだけである。

それで答えは十分だった。


「教えてください、どうして・・・」


それでも震える声で絞り出した言の葉は、彼には届かないまま雫になった。



もっと知りたいことが沢山あった。

もっと言いたいことが沢山あった。

もっと、一緒に居られるんだと思ってた。



そんな淡い期待は、瞬く間に打ち砕かれて。

あんなに笑っていた時間は、ほんの少ししか無かった事に気が付いて。

ただ、無意識に涙が零れた。

贅沢だったのだ、自分は。あんなにも楽しい時間を、永遠のモノだと勘違いをして。








「・・・どうして、泣くんですか?」



穏やかな声の質問は、心の底から疑問に思っているように、この上なく純粋だった。

はゆっくり顔を上げる。幾度と無く見た、その不思議そうな顔をもう一度しっかり見つめた。


「・・・どうしてだと、思います?」


暫く無言の時間が続いた。

バツが悪そうに頭の後ろに手をやる宗次郎も、解りません、と言ったきり黙ってしまった。

徐に、宗次郎は何かを確かめるように、そっと自分の胸に手を当てる。


「・・・はっきりとは解らないけど。でも、今僕の中にある気持ちは、さんと同じなのかな」


何も知らない幼子の様に。

何かを知った幼子の様に。

混じりけの無い心を、小さく押さえて。

そしてもう一度、目の前の瞳を見つめた。


「・・・どうして、泣いているんですか?」


そしてもまた、そんな瞳を食い入る様に見つめて。


「・・・寂しいから。悲しいからですよ」


幾度と無く彼に教えてきたことを、出来るだけ確かな声で伝えた。

人の気持ちがよく分からないと言った、彼の為に。



「そっか・・・じゃあ、もう泣かないで下さい」



そう言うと、小刻みに震えるの手を、宗次郎は自らの手でふわりと包み込んだ。

そして優しい手つきで格子から指を解き、代わりに冷たく固い、細い何かをきゅっと握らせる。

それは彼が早く咲くことを願った、梅の花の簪と。




「・・・今まで、ありがとうございました。お元気で・・・」




・・・これ以上無いほどの、綺麗で儚い微笑を湛えて。
















                 ◇
















―・・・今になって思えば。

この世で二つだけの後悔だった。





『ご苦労だったな。で、どうだった』





あの時。確かに志々雄さんの声は。





『そうか・・・邪魔だな』





『修羅に心は必要無い。始末しろ』




『あの・・・志々雄様、それはあんまりにも早過ぎませんこと?まだそうと決まった訳では無いのでしょう?

・・・その、坊やと店の娘が恋仲とは』



『ふん・・・』





『・・・一週間だ。もう一週間だけ様子を見て、まだ続くようなら・・・』






『消せ』






黒衣の手下の報告を受けて、志々雄さんは間違いなく本気で、彼女を“消す”と言った。

一片の躊躇いも無く、ただ邪魔だと。

それを聞いた僕は、"ああ、そういうことだったんだ" と、思った。


















彼女が。

僕と話さなければ。

僕に、無邪気に笑いかけなければ。












僕と、関わりさえしなければ。


















僕が

僕が、さんを・・・―



















・・・それに気付いた時。

一体僕は、どんな顔をして立っていたんだろう。




込み上げてきたモノが何なのかなんて、とうの昔に判っていた筈なのに。

ずっと気付かないふりをして、心の底に隠していたモノだったけど。



『あ、いらっしゃいませ』



何気ないその一言が。



『おまけです。内緒ですよ』



僕の名前を呼ぶ、よく通るその声が。



『宗次郎さん』



屈託の無い、柔らかなその笑みが。

僕の心をどんどん壊していくと、心の底では解っていたのに。






"気付かなければ、良かった"







最後の帰り道、容赦なく吹き付ける風はこんなにも冷たかったんだと、初めて思い知らされた。

体の芯まで、心の奥でさえも寒い、冷たいと収縮していく気がした。

そんな中、いつかあのひとがふと口にした事を、ふと思い出して。








『―だって、温もりを知ってるから、冷たいと解るのでしょう?』






















―ああ、そうだったんだ。




心地良かったあの場所は、僕にとってあんなにあたたかな処だったことを、その時初めて知って。

そしてあまりに遅すぎたあのひとへの想いは、今ではただ胸を締め付けるだけの痛みになっただけなのに。

ああ僕は何て愚かなんだろうと自嘲気味に笑ってみても、ぽっかりと空いた心の虚さが失せる事は無いのに。


・・・僕はあの温もりを知ってしまったから。





二度と忘れることの無い、優しい空間は。

二度と戻らない、夢の憧憬。





本当は、もう初めから全部、全部間違って、矛盾して、どうしようもなく解れていたのかもしれない。

目の前に映る、凍てつく大地に静かに横たわる梅の蕾のように。綺麗に花をつける事の無かった。

そんな出逢いだったけれど。



















何かが瞳の奥から零れて。

意識の届かないところで、とめどなく溢れるそれが。


・・・彼女を、好きだった。



そんな、紛れも無い証だった。












だから。それでも僕は。

ただ、一緒に居られた事を、嬉しく思うから。

それだけは、決して間違いなんかじゃない。ただ一つの、確かな証。



























「・・・ありがとう」






























だって、ずっと望んでたモノは確かに、其処に存在したんだ。


凍てつく雪を溶かしていくあのぬくもりは。
















貴女の、傍に。








・・・春の、隣に。































           了







こちらのミスで遅くなってしまってごめんなさい・・・。
まさかの20KB超で重くなってしまいました・・・orz
葵ちゃん、遅くなってすみませんでしたあぁぁぁ!!!m(__)m
こちらはそのままコピペでお持ち帰り頂けると思うので、宜しければ貰ってやってくださいなv
背景画像は写真配布サイト様の規約により、そちらで設定していただくことになります(汗)
あ、ちなみにもちろん返品可ですので!!一年以内なら(笑)


相互ありがとうございましたvv

                                     2008.4.13